「情報共有」と「自食作用」について


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「情報共有」は、日常的によく耳にすることばです。

私事ながら、情報は共有することが当たり前であると無意識に考え、日々を過ごしているからでしょうか、「情報共有」を巡り多くの想いが去来します。

そして「この想い、もしかしてかなり特殊なものなのだろうか?」と最近、とみに思うことが多くなりました。「大方の人はオープンにしないことを、自分は積極的に、むしろ無意識に、オープンにしてきた。・・・特殊かもしれない!」という想いです。

幼少年期、そして中学・高校時代、大学時代から企業勤務を経て今に至るまでを振り返り、頷けるところがあることに気づかされます。良いことも悪いことも隠さずオープンにしてきた。一方で、自己弁明は不得意であった。(これは表裏の関係にあるのかもしれない。一々弁明しなくても、解る人には解っているだろう。少なくとも自分は自分が不正をしていないと解っている。さらに神は解っている。こんな感覚である。「ジョハリの窓」などというものもあったな。)

もう一つ「部分最適」という言葉も、日常良く言われる。大企業の専売特許だ。(情報共有しないから部分最適になるのであろう、これも表裏一体ではないか。)

大学時代にボートという団体スポーツに心身に鞭打って日夜を明け暮れ、社会思想史を専攻し「トマスモアを読みプラトンか?ソクラテスか?」「ルソーの社会契約論」を読み、社会体制について論じあったあの時代に育ったことが大きく寄与しているのかも知れない。(ボートは「全体最適」をまず考えるスポーツでもあった。)

半世紀以上を生き、このように回顧する昨今ですが、それはさておき、ここに来て、時代の潮目が変わるコトガラを感じているのは、私だけではないと思います。

如何でしょうか?つまり以下のコトガラです。
一つ、東京都の豊洲市場の移転問題。
一つ、大隅氏のノーベル賞の受賞。

前者については、解説は不要でしょう。毎日紙面をにぎわせています。
(組織における「意思決定」につき極めて明快な解説は以下に有益です。)
『戦略サファリ』(ヘンリー・ミンツバーグ他著/齋藤嘉則監訳 木村充他訳/
  東洋経済新報社)p169「決定は邪魔物か?」

後者について、私の所見を述べたいと思いますが、
日経新聞一面から次の記事を抜粋記載することで、所見表明に代えさせて頂きます。
(これぞ将に「自食作用」といえるのではないでしょうか?不足する部分を外から摂取し、自己の意思表明のリサイクル!)

「オートファジー(自食作用)」ー不要なたんぱく質を分解ー
生き物が自分の細胞の不要なたんぱく質などを取り除いてリサイクルする仕組みで「自食作用」とも呼ぶ。ギリシャ語でオートは「自分」、「ファジー」は「食べる」の意味だ。
 たんぱく質やミトコンドリアを分解し、アミノ酸などに変える。成人は毎日、体内で約200グラムのたんぱく質を作るが、食べ物から摂取するのは70グラムだ。不足分のたんぱく質は、分解してできた原料で補っている。
 植物から哺乳類まであらゆる真核生物が持っている。生物の生存になくてはならない機能だ。細胞の健康を保つほか、分解したたんぱく質を栄養源に再利用することで飢餓に耐える働きがある。
 オートファジーが働かないと病気になることが分かってきた。世界中で研究が活発化している。オートファジーの働きを促し、細胞内のごみを取り除くことができれば、治療につながる可能性がある。(2016年10月4日 日経新聞一面より抜粋)

所見を一言。
組織も「自食作用」が働かないと、病気になるのではないか。これは元より公知の真理であり、私の定義する「内部契約」(内部環境対応)の課題に共通です。

また、一方の定義「外部契約」に記載する『なぜ「協働の関係としての契約」が必要か』に一条の光を与えてくれるのです。

そして、これらの定義も不要を分解し、分解した要素を栄養源に再利用することで活き活きとした活動にしていかなければならず、大小を問わず、あらゆる組織体にとっては、食べ物からの摂取、すなわち外部連携(協働)が必要であり現場に根ざした創発的戦略(「協働契約」)こそが、生命維持にとって必要にして欠かせない基礎(土台)なのではないだろうか「生命科学」にも「社会科学」にも共通の結論か!)との思いに至るのです。

「情報共有」による「全体最適」(「全体目標」)に向けた一歩一歩の活動、その前提があってこそ「部分が最適」となり、部分に属する個々の生命(人、組織)が活き活きとしてくるのだと思われます。これは「弁証法的 自己止揚」への「人類に課せられた大いなる旅」だとも言えると思います。

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