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私が「協働」というキーワードを知ったのは、建設省(現国土交通省)都市局所管の外郭団体で「まちづくり」の企画・調査業務に携わっていた20年近く前のことでした。

「協働によるまちづくり」といわれ、「市民参加」「行政参加」双方の相互乗り入れが「協働によるまちづくり」であり、「まちづくり」は行政のみが行うものでもなく、もちろん市民のみが行うものでもない、このような意味合いで使われていました。というより、そのころから登場したキーワードなのではないかと記憶しています。少なくとも都市計画分野ではそうではなかったかと思います。(違っていたらご容赦ください。当時作成したホームページに「まちづくりの基本理念」として記載しています。初回作成の粗末なものですが、ご参照ください。概念がお解かりいただけると思います。)

さて、今回(前回に引き続き)「『契約の時代-日本社会と契約法-』(内田貴著:岩波書店)P322」より以下に引用させていただきます。

契約関係を、特定の給付の約束として狭く捉えるのが近代法であるが、しかし、戦略的提携のひろがりは、信頼関係に根ざす取引が普遍的なものであり、その核心が情報の共有であることを如実に示す。これが、「協働」の関係である。「共生」という言葉が一時はやったが、「協働」は、これよりさらに積極的である。今後は、「協働」の理念に基づく契約法の再構築が求められることになるだろう。
このような見方は、実は、決して突飛なものではない。・・・・(中略)・・・
我妻栄博士はつとに、契約を「企図された共同の目的に向って相互に協力すべき綿密な、いわば一個の有機的関係」と見て、「信義則によって支配される一個の協同体」であると述べていた。

これは私の考える「契約」の概念と同一です。「契約」には、「契約(内的契約)」と、一方で昨今「win-win関係」構築といわれている「契約(外部契約)」があるが、より重要なのは「契約(内部契約)」ではないだろうか? すなわち「目的」を共有化した「外部」環境適合化のための「活動」が問われる時代ではないでしょうか?
仮説課題を提言しました。「契約とは?」に述べたとおりです。我妻先生の御説は知りませんでしたが、私の場合は、一般人ないし企業における営業の実務体感からですが、同様に感じるところです。さらに引用を続けます。

このような共同体論的な契約観は、その後の個人主義的風潮の台頭とともに、過去の遺物として否定されてしまった。しかし、皮肉なことに、今日、最も先端的な情報技術を駆使した効率性の追求の結果、まさに協働の関係としての契約が、普遍的な光の中に再登場したのである。それは、古い日本的家族間によって支えられた共同体とはおよそ異質な、経済合理主義が支配する世界において、登場したのである。そのことの意味を十分理解する必要があるだろう。

さらに興味深いことに、先に紹介したように、ユニドロワ契約原則の中には、次のような条文がある。
「各当事者は、相手方の債務の履行のために協力すること(co-operation)が合理的に期待されているときには、相手方と協力し合わなければならない(shall cooperate with the other party)」(第五・三条)

この「協働」という行動こそが私の考える「理念」実現への重要な羅針盤ではないかと考え、私自身も「行動指針の一つ」としています。 「事業方針」をご参照いただければ幸いです。

多くの共感者との「情報交換」「コミュニケーション」を通じて「協働」という行動原理にまで高まり、社会に定着することを目指しています。Blog、Twitter、Facebook、LINEなどによる「情報交換」も「協働社会」(「契約社会」)への前階程といえるのかも知れません。

共通の目的に向って「協働」する(「契約に至るプロセス活動」の)ツールとして先端的な情報技術を真に活用すべきときに来ていると思われます。

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