追想:「情報共有」「部分最適」と「自食作用」について


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「情報共有」と「部分最適」について:

「情報共有」は、日常的によく耳にすることばです。

私事ながら、情報は共有することが当たり前であると考え、日々を過ごしているからでしょうか、「情報共有」を巡り多くの想いが去来します。

  まずは、自己自身の分析から始めることにします(DIY)。

「この多くの去来する想い、もしかしてかなり特殊なものなのだろうか?」と最近、とみに思うことが多くなりました。「おおかたの人はオープンにしないことを、自分は積極的に、むしろ無意識に、オープンにしてきた。・・・特殊かもしれない!」という想いです。

幼少年期、そして中学・高校時代、大学時代から企業勤務を経て今に至るまでを振り返り、頷けるところがあることに気づかされます。良いことも悪いことも隠さずオープンにしてきた。そもそも「「良い」「悪い」は誰が決めるのか?という思いが根底にあった。また、ウソをつくことが恥ずかしいこと、という感覚が幼少期からあった。(→このことと「ウソを付いたことはない」とは無縁で、小学生時代の恥ずかしいと思うことを時々思い出す。幼少期、交渉ごとや自己主張が苦手で、その弱みを隠すため、ウソを付くことがあったと半世紀を経た今、過去の自己を分析することができます。~更に深く分析してみるに、「事実」をオープンにすることに積極的、かつ無意識にということであり、「内心」についてオープンとは言えないのではないか、とも分析できます。~「事実」と「内心」をこのように分けて論じることの不適切性を感じるが、とりあえずそうしておきます。)

  「内心」の根源はどこから生じるのか、内心が表出され、発現や行為になり「事実」となるのであるから、どこで線を引くのか

    おおいなる課題であると思う。(内心が病であった場合、そこから表出した行為、そしてその結果としての事実には責任が問

     われない、という現在の法律はどこから出でているのであろうか、課題は残されている。~個人的課題でもあり、社会的課題では 

    ないか!)

他方、自己弁明は不得意であった(特に成人になって以降)。これは表裏の関係にあるのかもしれない。一々弁明しなくても、解る人には解っているだろう。少なくとも自分は自分が不正をして(ウソをついて)いないと解っている。さらに神は解っている。こんな感覚である。

~以上のことは、「謝るということを知らなかった」ことに原因を求めることが出来るような気がする。理屈だが、何かにつけ「謝れる人」は自己弁明は不要であるし、ウソをつく必要もない。しかし、簡単に「謝れる人」は人から信頼を得られないかもしれない。要は何事も程度が必要でバランスが肝要とも思われる()。

)上述したが、「良い」「悪い」は誰がきめるのか、換言すれば「何が正しく」、「何が正しくない」かの規準は何なのか、明確でなければ、「謝る」という行為も不明確にならざるを得ない、というこれも理屈が成り立つ。

「部分最適」ということば:

もう一つ「部分最適」という言葉も、日常良く言われる。大企業の専売特許だ。大企業に約40年勤務したが、後半(2000年以降)よく耳にした。特に管理職の人達の間で(自分も管理職であったが)、他者(他部門)を批判する際、日常的に使用する(むしろ議論を中断せざるを得ないケース、すなわちあきらめの境地に至った際に発言される)ことばであったと記憶する。(情報共有しないから部分最適になるのであろう、これも表裏一体ではないか。(オープンにすると不正がわかってしまう。ウソがばれるから、オープンにしないのか?、不正というと強すぎるが、好ましくない仕事のやり方、「たこつぼ化」とも「仕事の囲い込み」とも言われた。)

大学時代にボートという団体スポーツに心身に鞭打って日夜を明け暮れ、社会思想史を専攻し「トマスモアを読みプラトンか?ソクラテスか?」「ルソーの社会契約論」を読み、社会体制について論じあったあの時代(社会正義を問う時代背景であった)に育ったことが大きく寄与しているのかも知れない。(ボートは「全体最適」をまず考えるスポーツでもあった。であるが故に魅力を感じ入部したとも回顧できる。もともと「全体最適」を指向する性癖が中高時代に形成されていたとも思われる。「正義感」あるいは「正義漢」が強かった。~母から「欲がない子だね」とか「祖父が軍人だったからね」とは大学時代言われた記憶がよみがえる。祖父は中野学校卒の銀時計組と母の葬儀の際伯母から聞いた。)

半世紀以上を生き、このように回顧する昨今ですが、それはさておき、ここに来て、時代の潮目が変わるコトガラを感じているのは、私だけではないと思います。

如何でしょうか?つまり以下のコトガラです。
一つ、東京都の豊洲市場の移転問題。
一つ、大隅氏のノーベル賞の受賞。

一つ、(2023年12月22日追加:)ダイハツ工業の不正による全車出荷停止。

これまでにもいくつかありましたが、現在のトピックスとして挙げました。

前者については、解説は不要でしょう。毎日紙面をにぎわせています。
組織における「意思決定」につき極めて明快な解説は以下に有益です。)
『戦略サファリ』(ヘンリー・ミンツバーグ他著/齋藤嘉則監訳 木村充他訳/
  東洋経済新報社)p169「決定は邪魔物か?」

後者について、私の所見を述べたいと思いますが、
日経新聞一面から次の記事を抜粋記載することで、所見表明に代えさせて頂きます。
(これぞ将に「自食作用」といえるのではないでしょうか?不足する部分を外から摂取し、自己の意思表明のリサイクル!

「オートファジー(自食作用)」ー不要なたんぱく質を分解ー
生き物が自分の細胞の不要なたんぱく質などを取り除いてリサイクルする仕組みで「自食作用」とも呼ぶ。ギリシャ語でオートは「自分」、「ファジー」は「食べる」の意味だ。
 たんぱく質やミトコンドリアを分解し、アミノ酸などに変える。成人は毎日、体内で約200グラムのたんぱく質を作るが、食べ物から摂取するのは70グラムだ。不足分のたんぱく質は、分解してできた原料で補っている。
 植物から哺乳類まであらゆる真核生物が持っている。生物の生存になくてはならない機能だ。細胞の健康を保つほか、分解したたんぱく質を栄養源に再利用することで飢餓に耐える働きがある。

 オートファジーが働かないと病気になることが分かってきた。世界中で研究が活発化している。オートファジーの働きを促し、細胞内のごみを取り除くことができれば、治療につながる可能性がある。(2016年10月4日 日経新聞一面より抜粋)

所見を一言。
組織も「自食作用」が働かないと、病気になるのではないか。これは元より公知の真理であり、私の定義する『「協働」の関係としての契約』<協働><協働>(「内部契約」)に共通です。

また、一方の定義「外部契約」に記載する『なぜ「協働の関係としての契約」が必要か』に一条の光を与えてくれるのです。

そして、これらの定義も不要を分解し、分解した要素を栄養源に再利用することで活き活きとした活動にしていかなければならず、大小を問わず、あらゆる組織体にとっては、食べ物からの摂取、すなわち外部連携(協働)が必要であり現場に根ざした創発的戦略(「協働契約」)こそが、生命維持にとって必要にして欠かせない基礎(土台)なのではないだろうか「生命科学」にも「社会科学」にも共通の結論か!)との思いに至るのです。

「情報共有」による「全体最適」(「全体目標」)に向けた一歩一歩の活動、その前提があってこそ「部分が最適」となり、部分に属する個々の生命(人、組織)が活き活きとしてくるのだと思われます。これは「弁証法的 自己止揚」への「人類に課せられた大いなる旅」だとも言えると思います。(初回投稿2016年10月6日、編集投稿2023.12.22)

「オートファジー」についての解り易いサイトです。

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